天野こうゆう氏
「祈る姿―高野山高校に学んで―」
高野山高校で過ごした八年間
おはようございます。私は昭和43年、1968年生まれで、今58歳でございます。
高野山高校には、1984年、昭和59年に入学しました。なぜ入学したのかは、後ほどたっぷりとお話しします。当時の高野山高校は、今のような学校ではありませんでした。わりかし、やんちゃな人たちが集まる学校で、高野山高校にはもってこいぐらいの僕でした。高野山には「高野の昼寝」という言葉があります。
高野山では、昼寝をしていても自然と仏さまの教えや文化に触れ、何かを学ぶことができるという意味です。私は授業中にいつもうとうとしていましたから、先生から、「お前は『高野の昼寝』を実践しとるな」
と言われ、それが先生の決まり文句のようになっていました。
今思えば、立派な大学を卒業されてから、一年間――一年といっても十か月ほどですが――高野山の修行道場に入り、お坊さんになって山を下りていく人が、たぶん六割から七割だと思います。
私たちは「叩き上げ」と言われまして、15歳で入学してから八年間、高野山にお世話になりました。
では、何を教えていただいたのか。今日も「武勇伝は禁止」と言われましたので、武勇伝抜きで話しますが、とにかく厳しかった。「帰りたい、帰りたい」の連続でした。しかし、帰ることはできない。それでも、お兄ちゃんのような先生たちがたくさんいて、仲間と助け合い、ときには喧嘩もしながら、三年間頑張りました。その経験が、今、住職として生きる私の糧になっていると思います。
心より先に、姿勢・行い・言葉を整える
ほかの場所でも、いろいろな学問を学ぶことはできます。
しかし、真言宗の教えの中心には「三密」があります。
身密・口密・意密。つまり、姿勢や行い、言葉、そして心です。
今の日本では、特に「心を込めて、心を込めて」と言います。
しかし、先生たちの教育はそうではありませんでした。
「お前たちが何を考えておろうが、何を思っておろうが、まず、ちゃんとした姿勢をしなさい。ちゃんとした行いをしなさい。ちゃんとした言葉を使いなさい。そうすれば、皆さんがそこに心を感じてくださる。だから、まず自分の気持ちは捨てなさい。心を捨てなさい」
そんなことを教えてくださったのです。
私は最初、高野山高校の寄宿舎に入りました。
当時の生徒には、三つの通学形態がありました。
高野山内の自宅から通う者。寄宿舎から通う者。そして、宿坊のお手伝いをしながら学校へ通う者です。
当時は学生が多く、寄宿舎には200人ぐらいいたと思います。
4月8日に入学式があり、寄宿舎生活が始まりました。
忘れもしません。翌9日の朝、起床は6時でした。
「全員、廊下に並びなさい。五分前集合です」
みんなで並びます。
すると、一人の生徒が先生にものすごく怒られていました。
何を怒られているのだろうと思って聞いていますと、
「朝起きて、不機嫌な顔をするな」
と言われているのです。
「今までの生活では、お前はぶすっとした顔で学校へ通っていたかもしれない。しかし、その顔が一番いけない。上機嫌にしなさい」
これが最初に教わったことです。
それから、みんな朝から、にやにや、にやにやするようになるんですね。
次に教わったのが、朝礼での正座です。
私は寺の子でしたが、正座はなかなかつらかった。40分もすると、もう足がしびれます。
朝礼がすべて終わって、部屋へ戻る。その一瞬、足を崩して、みんな横座りのようになり、
「痛い、痛い」
と言うんです。
すると、そこで先生が怒るんですよ。
「痛いのは、みんな痛い。私も痛い。そんな中で、何も言わず、すっと立つ者がいたら、立派だなと言われるんだ。ここで『痛い、痛い』と言えば、みんなと一緒だ。痛いのは全員痛い。しかし、『痛い』と言わず、すっと立ち上がり、ふらふらしながらでも行動に出る。そうすれば、『ああ、小僧さん、勉強しているな。修行しているな』と褒めてもらえるんだ」
そんなご褒美は、当時の私たちには要らないんですけれどもね。
しかし、ありがたいことに、それがずっと自分の中の理念として生きています。
身・口・意。姿勢、言葉、心。
これを常に意識して生きていきなさい。
そう教わったのが、高野山へ入って三日目の話です。
「どこで手を合わせるか」より「どこへお尻を向けないか」
「高野山で、拝むことを学びましたか」と、よく聞かれます。
「どこで手を合わせるのですか」というような聞かれ方をするのですが、実は全然違います。
どこで手を合わせるかというより、どこへお尻を向けてはいけないかを教わるのです。
高野山には奥之院の御廟があります。
弘法大師空海さまが、今も生きたままのお姿で、私たちのために祈り続けてくださっている場所です。
まず、
「御廟はあちらにある」
と教えられます。
着替えるときにも、御廟の方へお尻を向けないよう、少し体をかわしながら着替える。
運動場へ出ても、あちらにいらっしゃるから、あちらへ一礼をしてから学校生活を始める。
そういう教育が徹底されているのです。
そうすると、どこへ行っても自然に手を合わせるようになります。
今思うと、あの高校三年間は、本当に大事で、濃密な時間でした。
私にも子どもがおりますが、今の私にとっての三年間と、あのときの私にとっての三年間とでは、まったく重さが違います。
余命半年と告げられた母親と、その息子の二年間
「娘のために、お墓を拝んでほしい」
先日、お寺で、ちょっとしたことがありました。
あるおばあちゃんから電話がかかってきて、
「すまんけど、お墓を拝んでくれ」
と言われました。
「お墓は建っているの?」
「建っとる」
「法事はしたの?」
「法事はもうやった」
それなら、なぜ私がお墓へ呼ばれるのだろうと思いながら、山の中のお墓で待ち合わせをしました。
行ってみると、おばあちゃんがきれいに花を入れて待っていました。
「今日は何のために拝んだらいいの?」
と聞くと、わあっと泣くのです。
「どうしたの」と聞くと、自分の娘さんのことでした。
娘さんは30代後半でした。
全国の名医のもとへ通ったけれど、お金もかかるし、体力ももうもたない。新幹線で東京や九州へ通うような治療を続けてきたけれど、今は自宅で自然治癒に頼るしかない状態だと言うのです。
ところが、周りはいろいろなことを言います。
「先祖供養が足りない」
「墓参りが足りない」
娘を助けたい一念ですから、そんな小さな言葉でも、おばあちゃんは苦しくなるんですね。
それで、
「和尚さんにお墓を拝んでもらったら、このお墓の功徳が娘に届きはせんかと思うんです」
と頼まれました。
そんなことを頼まれたら、断るすべはありません。
「分かった、分かったよ」
と言って、大きな声で薬師如来さまの御真言を唱えました。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」
薬師如来さまの御真言をお唱えしました。
ちょうど2019年頃だったと思います。
新型コロナウイルスのパンデミックが始まり、人と人とがなかなか会えなくなる、ぎりぎり前の頃でした。おばあちゃんもマスクをして来ていました。
私は、
「おばあちゃん、これから、なかなかみんなと対面で会えなくなるから、YouTubeを始めたいんよ。朝7時から30分ほど、毎日配信しようと思う。娘ちゃんと、おばあちゃんも見てよ」
と話しました。
最後には延命のためのお経や、疫病退散のお祈り、薬師如来さまの御真言などもお唱えするから、と伝えました。〔経名は要音声確認〕
「娘ちゃんには、大きなことを言わなくていい。もう立つ気力もなく、水しか飲めないような状態なら、布団の上で横になったままでいい。気分がよければ座って、お坊さんが拝むのと一緒に唱えてください、とだけ伝えて」
そう言いました。
娘さんの余命は、その時点で半年と言われていました。
皆さん、お寺で一番つらい電話は、亡くなったという電話ではありません。それは、もう仕方がありません。
「亡くなりそうです」という電話が、一番つらいんです。
電話が鳴るたびに、
「娘ちゃんに何かあったのかな」
「何かあったのかな」
と思ってしまいます。
幸いなことに、それから半年間、何の連絡もありませんでした。
そして、町でおばあちゃんにばったり会いました。
「あれから少し元気になって、笑顔が戻ってきた。少しだけれど、ご飯も食べられるようになった。大好きな犬とも遊べるようになったんよ。あんたのおかげじゃ」
と言ってくれました。
「そんなことはありません。余命なんていうものは、お医者さんがつけた一つの目安ですから、そんなに当てにしてはいけませんよ。もっともっと長生きしてください」
そんな話をして別れました。
二年後の葬儀で会った長男
それから二年たった、クリスマスの少し前、12月23日頃だったと思います。
おばあちゃんから電話がかかってきました。
泣き崩れながら、
「よう頑張った。明日、お葬式に来てくれんか」
と言われました。
「分かりました。伺います」
私も、さすがにつらくなりました。
翌日、葬儀会館へ行きました。
控室に通していただき、葬儀会館のスタッフと打ち合わせをしました。
そのあと、親族の方にご挨拶をいただきましょうということになりました。
扉が開くと、おばあちゃんが目を真っ赤にして入ってきて、
「本当にありがとうな」
と言って、私の手を握ってくれました。
「何がありがたいんですか。もっともっと元気になってもらいたかったし、治ってほしかった」
こちらも目が熱くなりました。
すると、おばあちゃんの後ろに、喪服を着た、すらっとした男の子が立っていました。
その子がすっと前へ出て、
「このたびは、母がお世話になります。喪主を務めます、長男です」
と言ったのです。
息子さんがいたのです。
娘さんはシングルマザーで、一人息子がいました。しかし、私の前に出てきたのは初めてでした。
「このたびはお世話になります」
ものすごく立派な挨拶でした。
私は、つい口をついて、
「すまんかったね。和尚さん、力になれなくて、本当に申し訳なかった」
と言いました。
すると彼は、
「何を言われるんですか。僕は今年で20歳になります。和尚さんにとっての二年間は、そういうものかもしれません。でも、僕にとっての二年間は、とても濃密なものでした」
と言ったのです。
びっくりしました。
私がお墓参りへ行った頃、彼は高校生でした。
「母ちゃんは、あと半年で死ぬんじゃな」
そう考えながら、最後の高校生活を送っていたのです。
しかし、卒業式が来ました。
そして就職が決まりました。就職先は近くのホテルでした。
お母さんには卒業式を見てもらうことができた。
入社式も見てもらうことができた。
そして、彼は成人式を迎えました。
成人式の姿も、お母さんに見てもらうことができたのです。
成人のお祝いも兼ねて、勤めているホテルの支配人が、
「君のお母さんは、あまり体がよくないらしいけれど、よかったらホテルに一泊してもらわないか。君も休みを取って、一緒に泊まりなさい。シェフが腕を振るうから、食べられるかどうか分からないけれど、ごちそうを用意する。『僕はこんな所で働いているんだよ』と、お母さんに見せてあげたらいい」
と言ってくださったそうです。
招待されたお母さんは、体が重かったと思いますが、とても喜び、おばあちゃんと一緒にホテルへ泊まりました。
彼は言いました。
「半年で終わっていたら、僕は高校を卒業したことしか報告できませんでした。でも、この二年間で、卒業式、就職、入社式、成人式、僕が働く姿まで見てもらうことができました。今の僕にとっては、この二年間に人生を凝縮したようなものを、母に届けることができました。だから、僕は大満足です」
「そして、それは和尚さんたちが、おばあちゃんと一緒に祈ってくれたからだと思っています。では、和尚さん、よろしくお願いします」
そう言われました。
どちらが教えられているのか分からなくなりました。
こちらが手を合わせながら、お葬式の席に着きました。
私たちにとっての二年間というのは、人生が長いから、いろいろある中の二年間かもしれません。
しかし、二年間という時間は、本当に大きい。
私にとって、高野山高校にいた経験も大きい。
人が亡くなる。人を送る。誕生をお祝いする。いろいろな人生の出来事に関わる。
高野山では、それが自然な形で、当たり前のように身近にあります。
そう思うと、15歳から高野山に入るのと、大学を卒業してから高野山へ上がり、十か月ほど修行するのとでは、感じ方がまったく違うと思います。
高野山で学ぶ「基本」
毎朝の配信が、母校への入学につながった
私は今、七年間、一日も休まず、朝のお勤めを配信しています。
毎日ですから、だんだん話すことがなくなります。
そうすると、高校時代の思い出を、ついついお話しするようになるんですね。
学校の先生に聞きますと、しょっちゅう問い合わせがあるそうです。
「うちの子どもを高野山高校へ出すには、どうしたらいいでしょうか」
「うちの孫を高野山へ進学させたいのですが」
と、問い合わせが来るのだそうです。
「お前、何をしたんだ」と言われるのですが、私はただ、
「高野山高校は、ええよ」
と話しているだけです。
実際、この七年間で三人が高野山高校へ上がってくれました。
そのうち一人は、お母さんが中国の方でした。日本で活躍されている方で、配信をご覧になり、
「こういう教えがあるんだ」
と知って、息子さんを15歳で高野山へ送り出してくださいました。
何がどうあるべきかは、一概には分かりません。
しかし、大切なのは、基本を教わることです。
その基本とは、信仰を中心として、姿勢から学ぶことです。
これは、とても大きなことだと思います。
弘法大師と恵果阿闍梨――師匠が弟子になる
弘法大師空海という方は、「綜藝種智院」という学校を作られました。
身分や立場による差別なく、どんな人でも学べるようにしようとした、日本最初の庶民のための学校です。
この教育の精神はどこから来たのか。
空海さまが中国で出会ったお師匠さま、恵果阿闍梨からいただいたものです。
恵果阿闍梨は、どのような方でしたかと尋ねられたとき、空海さまは、
「虚しく往きて実ちて帰る」
という趣旨の言葉を残されています。
どれほど会いたいと思っても、海を渡り、国を渡り、命懸けで会いに行くのは、出発する前には躊躇するものです。
しかし、行ってよかった。会えてよかった。
空海さまにとって、恵果阿闍梨は、それほどすべてを満たしてくださるお方でした。
やがて恵果阿闍梨が亡くなられます。
空海さまは、いわば葬儀委員長のような立場で、五千人ともいわれる弟子たちを前に、中国で葬儀を執り行いました。
すべての教えを自分に授けてくださった恵果阿闍梨のもとを離れ、中国を離れて日本へ帰ることは、とても罪深いことのように感じられた。
「私は、この国にとどまって、師匠のあとを継ぐべきではないか」
そう悩まれました。
すると、瞑想の中に恵果阿闍梨が現れて、
「あなたは、何を悩んでいるのですか。早く帰りなさい。私は一足先に東の国、日本へ行き、今度は生まれ変わって、あなたの弟子になります」
と告げたと伝えられています。
いろいろな偉人の言葉を探してみても、師匠が弟子の弟子になるという言葉は、なかなか見当たりません。
綜藝種智院を作られたときにも、先生は生徒に対して、わが子に接するようなつもりで教えてほしいという精神が示されました。〔原文の細部は要音声確認〕
その理念が、今も高野山高校の教育の中心にあると、橋本先生から教わりました。
自分が偉くなったような気持ちになってしまいがちですが、先生も生徒から学び、生徒の弟子になるような気持ちで向き合う。
そのことを自覚しながら学べるのが、高野山のすごさだと思います。
なぜ高野山高校へ進学したのか
学校へ行かず、萩本欽一さんの弟子を目指した中学生
今日は、私がなぜ高野山高校へ行ったのかという話を、少しさせていただきます。
私は中学校のとき、地元の学校へ通っていました。
父親はカメラマンでした。
その家がお寺だった、というような感覚で育ち、自分の家が何宗なのかも、ほとんど知りませんでした。
何をやっても長続きはしませんでしたが、好奇心は旺盛で、絵を描いたり、野球をしたりすることが好きな子どもでした。
中学生になった頃は、学校がとても荒れていた時代でした。
『3年B組金八先生』が流行ったような時代です。
私は、学校へほとんど行かなくなりました。
引きこもっていたわけではありません。外をふらふらしていましたが、学校へは行きたくなかった。
何が好きだったかというと、人を笑わせたり、楽しませたりすることでした。
そんなとき、一人の尊敬する人に出会います。
毎日のように、父と母は私を叱りました。
私が迷惑をかけるので、晩ご飯の空気が悪いんです。
しかし、その悪い空気を一変してくれるものが、茶の間に置かれたテレビでした。
テレビに萩本欽一さんが出てくるのです。
当時、「視聴率100%男」と呼ばれるほどの方でした。
今のお笑いとは少し違って、若者だけではなく、いろいろな世代を笑わせる。
おじいちゃんと一緒に見ても笑えるし、母ちゃんと見ても笑える。
「こんなすごい人はおらんな」
と思いました。
単純なものですから、
「この人の弟子になろう。どうしたら東京へ行けるだろう」
ということばかり調べていました。
友達に相談すると、
「番組に葉書を書いたら、読んでもらえるかもしれんよ」
と教えてくれました。
それから番組へ一生懸命、葉書を書くようになりました。
そんな中、運命の出会いでしょうか。
『欽ちゃんの仮装大賞』という番組がありました。
当時は五千組ほどの申し込みの中から、40組か50組ほどが本選に出られたのだと思います。
私は、とんとんと審査を通ってしまい、中学二年生の秋、『仮装大賞』に呼ばれることになりました。
もちろん、家族には内緒です。
友達と、その友達のお姉さんに無理を言って、二泊三日のホテル代と交通費を準備して、東京へ行きました。
本番は生放送でした。
番組が終わると、舞台袖に萩本さんが机を置いて座っておられ、出演者全員に会い、一緒に写真を撮り、声をかけ、サインをしてくださいました。
尊敬する人が、すぐそこにいるのです。
私は慌てて生徒手帳の紙を破り、自分の名前と住所を書き、そして「弟子希望」と書きました。
列に並びながら、
「僕を弟子にしてください。僕を弟子にしてください」
と練習しました。
「次の人、どうぞ」
いよいよ私の番です。
どこから声が出たのか分かりませんが、
「僕を弟子にしてください!」
と言いました。
萩本さんは大笑いし、スタッフの方と顔を見合わせながら、
「お前は今、何歳だ」
と聞きました。
「14歳です。中学校二年生です」
「そうか、そうか。まだ早いな。またおいで」
萩本さんは断ったつもりだったのでしょう。
しかし、当時の私は、
「もう少ししたら、弟子にしてもらえるのかな」
と思って、
「分かりました」
と答えました。
それからも、また番組へ葉書を書き続けました。
中学三年生のゴールデンウイークに、『仮装大賞』の生放送へ、また出ることになりました。
「これはもう運命に違いない」
今度は、生徒手帳の写真を持って行きました。〔写真の用途は要音声確認〕
本番が終わり、また後ろの列に並びました。
どきどきしながら前へ進んでいくと、萩本さんが、
「また来たんか」
と言ったのです。
「覚えてくれている。脈がある」
と思いました。
「お願いします。弟子にしてください」
と、もう一度頼みました。
すると萩本さんが、少し厳しい顔をして、
「なぜ、芸人になりたいんですか」
と聞きました。
私は、
「子どもからお年寄りまで、みんなを笑わせ、喜ばせる人になりたいんです」
と堂々と言いました。
自分の中では、拍手喝采です。
しかし、返ってきた言葉は、
「お父さん、お母さんを喜ばせていますか」
でした。
反射的に「はい」と言いそうになりました。
しかし、本当に正直な言葉を出そうとすると、怒っている父親と、悲しんでいる母親の顔しか浮かびませんでした。
私は、全然、二人を喜ばせていなかった。
言葉がぴたっと止まってしまいました。
「ありがとうございました」
と言って頭を下げ、地元へ帰りました。
祖父の鶴の一声
世の中は偏差値教育で、みんな偏差値によって進学先を決めていました。
私の親も、
「この子は、どこへ行けますか」
と先生に頭を下げました。
しかし、先生からすれば、
「ご冗談でしょう。出席日数も危ないんですよ。この子が、どこへ行けると思うんですか」
という状態です。
私は完全に芸人になるつもりでしたから、志望校の欄には、堀越学園と明大中野の夜間部と書いていました。
そんなふざけた子どもを前に、家族は、
「困った、困った」
と思っていました。
そこへ鶴の一声を出したのが、高蔵寺第15代住職、天野宥圓、私の祖父でした。
「すぐ来なさい」
と言われて行くと、部屋の真ん中に、小柄で背筋の伸びた祖父が座っていました。武道家でもありました。たばこを吸い、両脇には仁王さんのような若いお弟子さんが座っていました。
そこへ私と父と母が、申し訳なさそうに座りました。
「お前、勉強は頑張っとるか」
「はい、頑張っています」
そう答えて、母の顔を見ました。
「頑張っています」と言った声が裏返りました。
「何が頑張っとるんじゃ。全然、勉強もせず、芸人になると言うとるそうじゃないか」
なぜ祖父の耳に、それが入っているのだろうと思いました。
当時の校長先生、あるいは学校の先生が、寺の総代でもあり、祖父にすべて伝えていたようです。〔関係者名は要音声確認〕
今なら「情報漏洩だ」と言われるかもしれませんね。
その先生が、
「この子はいけませんよ」
と祖父へ伝えていたのです。
祖父が、
「高野山に高校がある。行ってみるか」
と言いました。
高野山がどこにあるのか、どんな所なのか、私は何も知りませんでした。
しかし、「高野山へ行ってみるか」と言われた瞬間、頭に浮かんだものがありました。
当時、『オロナインH軟膏』のコマーシャルがあったのです。
古手川祐子さんが、蛇の目傘を差して、雪の高野山を歩く映像でした。
宿坊を見ると、若い小僧さんが、雪の中で廊下を雑巾がけしています。
耳を真っ赤にし、手をこすっています。
すると古手川祐子さんが縁側に座り、若い小僧さんが寄ってくる。
「手が痛いね」
というようなしぐさをして、きれいな手でオロナインを塗ってあげる。
そしてカメラの方を向いて、
「高野山のお坊さんにも、オロナインH軟膏」
というようなコマーシャルが流れていました。〔台詞は要音声確認〕
私は一瞬、
「だからといって、高野山へ行くのは無理です」
と言いそうになりました。
しかし、父と母が、
「高野山ですか。いいですね」
と、安心したような顔をしたのです。
そのとき、萩本欽一さんから言われた、
「お父さん、お母さんを喜ばせていますか」
という言葉が浮かびました。
「今しかないんじゃないか」
と思いました。
一番尊敬する人が、そう問いかけてくれたのです。
思わず、
「行きます」
と言いました。
すると、両脇に座っていた屈強そうなお坊さんたちが立ち上がり、そこからはスパルタでした。
半年間、勉強、勉強で、何とか合格させてもらい、高野山へ行くことになりました。
母と二人で高野山へ
六回乗り換え、六時間半の道のり
高野山へ行ったのは、入学までに二回です。
一回目は受験のとき、祖父に連れられて行きました。
そのときは本当に不安で、周りを見る余裕もありませんでした。面接と受験だけを済ませ、日帰りで帰りました。
合格しました。
二回目は入学式です。
母親が、
「入学式には私がついて行きます」
と言いました。
昭和59年、1984年4月7日、倉敷から六回乗り換え、六時間半かけて、母と高野山へ向かいました。
当時のやんちゃな15歳の子どもにとって、母親と一緒に歩くのは、恥ずかしくて仕方がありません。
しかし母は、それまで私の世話を十分にできなかったと思っていたのでしょう。ずっとそばについて、いろいろなことを言います。
かばんの中から、おにぎりや食べ物や果物が、次々と出てきます。
電車の中でも、
「あれ食べ、これ食べ」
と言うのです。
大阪の難波まで来たときは、
「こんな街なら、ええな」
と思いました。
しかし、南海高野線に乗り、電車が進むと、橋本辺りから急に寂しくなります。
四両だった列車が二両になります。
事情を知らない私たち親子に、
「すみませんが、前の車両へ移ってください。この車両は車庫に入ります」
と教えてくれる人がいました。
慌てて移ると、後ろの車両には誰もいません。
きいきい音を立てながら、高野山へ上がっていきます。
「えらい所へ来てしまったな」
と思いました。
誰が名づけたのか知りませんが、駅の名前は「極楽橋」です。
どこが極楽なのか。全然、極楽ではない。
急な斜面を、ケーブルカーで上がります。
ケーブルカーの中では、『エーデルワイス』が流れていたと思います。
そこからバスに乗って、高野山の町へ着きました。
その日は宿坊に泊めていただき、翌日の午前中に高野山高校の入学式、午後から入寮式がありました。
寄宿舎への入寮
入寮すると、〔寮棟名は要音声確認〕という棟の、六畳ほどの部屋に二人ずつ、無作為に入れられました。
私は岡山市内から来た大橋君と、同じ部屋になりました。
親同士はすぐ仲よくなり、カーテンを掛けたり、棚を拭いたり、部屋の準備をしてくれます。
大橋君とは初対面で、
「よろしくお願いします」
と挨拶しました。
男の子は勝手なものですから、母親にいろいろしてもらいながら、
「もう帰らんかな」
と思っています。
しかし、母親たちは張り切って、なかなか帰りません。
午後3時、
「ピンポンパン」
と放送が鳴りました。
「新入生、それから保護者の皆さん、おめでとうございます。本日、我が寄宿舎は夕ご飯を用意していません。20時を門限としますので、それまで親子でお楽しみください。ただし、20時を過ぎますと、面会・電話等は、明日以降まで一切させませんので、ご了承ください」
「ピンポンパン」
大橋君も、私も、絶望的な顔をしました。
まだ母親と一緒におらなければならない。
しかし、大橋君のお母さんもうちの母も、
「そろそろ片づけて、高野山を歩きましょうか」
と喜んでいます。
それぞれ別々に、高野山の町を歩くことになりました。
奥之院で見た「祈る母の姿」
「同行二人」の意味
高野山は、縦に約4キロ、横に約2キロの盆地で、標高800メートルから900メートルほどの所にあります。
4月とはいえ、雪がたくさん残っていました。
母と一緒に歩きましたが、まだ午後3時過ぎです。夕食まで時間があるので、
「弘法大師さまのいらっしゃる奥之院へ、ご挨拶に行きましょう」
ということになりました。
二人で歩くのですが、私はなるべく母との距離を空けたい。
母は、しゃきしゃきと歩き、時々振り返って、
「おいで」
と呼びます。
呼ばれると近づき、また離れる。尺取り虫のようになっていました。
石橋の所に着くと、母が深呼吸をして、
「ここからは、真面目に歩きなさい」
と言いました。
奥之院の参道は長く、夕方の春の日は、つるべ落としのように、どんどん暗くなっていきます。
「こんな所へ来てしまったのか」
というのが正直な気持ちでした。
ばたばたと音がすると鳥が飛び、ぽんぽこ音がすると狸がいる。
どさーんという音に飛び上がると、杉の木から雪が落ちてくる。
そんな所を、母と二人で歩きました。
正面から、白装束を着て鈴をつけたおばあちゃんたちが歩いてきます。
「お参りですか。立派じゃね」
と挨拶してくれます。
15歳の私にとって、知らない人が挨拶してくること自体、ぴんときません。
笠か何かを見ると、「同行二人」と書いてありました。
私は、
「何だ、『どうぎょうにん』と書いとる」
というような読み方をしました。
母が、
「恥ずかしいな。それは『どうぎょうににん』と読むんよ。弘法大師さまが、いつもあなたのそばで、一緒に修行してくださっているという意味よ」
と教えました。
私は母の横へ戻りました。
御廟前で、母が弘法大師へ頼んだこと
中の橋まで来ると、そこからは霊域です。
「ペットを連れて入らない」「飲食物を持って入らない」など、厳しい決まりが書いてあります。
さすがに、そこから空気がぴりっと変わりました。
帽子を脱ぎ、母と一緒に一礼をして、橋を渡りました。
目の前に、二十数段の石段があり、その上がほんのり明るく見えました。
灯籠堂では、夕方のお勤めが始まっていました。
参拝者はほとんどいません。
「母ちゃん、ここか」
「ここじゃない。このもう一つ向こう。もっと静かな所」
声明というものも、その日、初めて聞きました。
「ああ……」
と、包み込まれるような声です。
とても荘厳で、
「すごい所へ来たな」
と思いました。
灯籠堂の横を時計回りに通らせてもらうと、その奥に、弘法大師さまがいらっしゃる御廟があります。
御廟そのものへ入ることはできません。
しかし、その前では、五体投地をしている人もいる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
と泣いている人もいる。
一心にお供えをしている人もいる。
一種、異様なほど切実な空気でした。
「邪魔をしてはいけない」
と思い、静かに正面へ進みました。
母はお供えを出し、正面で合掌しました。
私は、それまでまともに拝んだことがありませんから、母のお経を聞きながら、まねをしました。
「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛……」
ここだけは何とか分かるので、一緒に唱えました。
母が深々と一礼をしたので、私も一礼しました。
「もう終わりかな」
と思って、ちらっと母を見ました。
しかし、まだ合掌しています。
ずいぶん長いなと思っていると、母が、ぶつぶつと何かを話し始めました。
「天野〔家族名・要音声確認〕、天野〔家族名・要音声確認〕、長男、天野高雄でございます。今日から高野山でお世話になります」
母は、弘法大師さまへ、私の自己紹介をしているのです。
声も、そこそこ大きいので、私は恥ずかしくて仕方がありません。
「この子は偉そうなことを言いますが、怖がりで、夜は一人で便所にも行けません」
というようなことまで話します。
「母ちゃん、やめてくれ」
と思いました。
しかし、母は懸命に、私のことを弘法大師さまへ頼みました。
「この三年間、お願いがあります。必ずこの子は逃走します。しかし、追い返さないでください。もう、この子には、この三年間しかないんです。お願いですから、ここに置いてやってください」
「それから、もう一つお願いがあります。罰を当てないでください。罰は全部、私が受けますので、この子には罰を当てないでください」
それを聞いたとき、何とも言えない気持ちになりました。
「怒る父の姿は不動明王のごとく、祈る母の姿は観音のごとし」
という言葉があります。
まさに母が、生きている人のために祈っている。
私は、死んだ人を抱えて拝むものだと思っていました。
しかし、自分の愛する子どものため、わが子のために、一生懸命に祈る母の姿を目の当たりにしました。
「今まで、突っ張っていて悪かったな。何とか頑張るわ」
という気持ちになりました。
しょんぼりしながら、御廟を後にしました。
最後のとんかつ定食
時計を見ると、午後7時前でした。
門限まで、あと一時間ほどしかありません。
千手院橋の辺りには、土産物屋や食堂がたくさんありました。
母は、その中で一番暖かそうな食堂を選び、二人でご飯を食べることにしました。
一番栄養のありそうなものは何か。
とんかつ定食です。
とんかつ定食を、二千円で一つずつ頼みました。〔当時の価格表現は要音声確認〕
私は腹が減っていましたから、勢いよく食べ始めました。
しかし、母は箸を持ったまま、私が食べるのをじっと見ています。
「おかず足りるか。足りんかったら、これも食べ」
と言います。
途中で気づきました。
母は、一口も食べていない。
そう思うと、込み上げてくるものがありました。
勉強ができなくても、そういうことには気づくんですね。
喉が詰まりました。
しかし、ここで私が食べることが、母にとって一番うれしいのだろうと、15歳の少年は考えました。
無理やり、全部いただきました。
「じゃあ、行ってきます」
と言いました。
食堂のお兄さんが、
「逃げるなよ」
と言ってくれたように記憶しています。
高野山の伽藍と金剛峯寺の間辺りに、今も駐車場があります。電話ボックスの前でした。
母が泊まる宿坊と、私の寄宿舎は別の方向でした。
「もう、一人で行けるから」
と私は言いました。
伽藍の方へ続く道に、街灯がぽつ、ぽつとあります。
母は、
「あそこまでは送る」
と言って、一つ目の街灯まで来ました。
「もうええ」
と言っても、二つ目まで来る。
三つ目ぐらいまで来たとき、私ももう、泣きそうになりました。
わざと大きな声で、
「もうええな。はよ帰れ」
と言いました。
母は、
「そうですか。それでは頑張ってください」
と言って、また手を合わせました。
私は何度も、何度も振り返りました。
しかし、母は一つも顔を上げません。
「ほんまに行くぞ」
と言っても、返事がありません。
とうとう涙が出てきました。
そうやって、高野山での生活が始まりました。
得度の日に授かった言葉
その年の6月7日。偶然にも、私の16歳の誕生日でした。
その日に得度を受けさせていただく機会を得て、今があります。
当時、高野山真言宗管長・金剛峯寺座主であられた森寛紹大僧正が、
「平凡を倖せとして去年今年」
という俳句を残されています。
平凡とは、当たり前、普通、無事という意味です。
当たり前で、退屈に思えるかもしれない。
しかし、平凡な一日をいただいていることは、本当にありがたいことなのです。
みんなのおかげがあるから、平凡でいられる。
だから、感謝しなさい。
ただし、君たちは今日からお坊さんになった。
これからは、みんなのおかげに感謝するだけではなく、自分がみんなの「おかげ」になれるよう、勉強しなさい。
そのように教わり、今があります。
その後、高校二年生のとき、橋本先生が宗教科の新任教師として高野山高校へ来てくださいました。
野球部も写真部も辞めて、行き場を失っていた私を宗教行道同好会へ誘い、本当に手取り足取り教えてくださいました。
「先生」と呼ばれた違和感
最後に、今日、一番感じた違和感をお話しします。
私がここへ来ると、
「先生、こちらでございます」
「先生、こちらでございます」
「先生、そろそろご準備よろしいですか」
と言われました。
誰のことを言っているのか、分かりませんでした。
私は、先生に会いに来たのです。
先ほども申しましたが、先生は自分が一方的に教えるだけではなく、生徒の弟子になるような気持ちで、私たちを導いてくださったのだと思います。
学校の詳しい説明は、これからあります。
きっかけがありましたら、お子さんをぜひ「高野の昼寝」へ誘っていただけたら、私の役割は終わるのかなと思います。
高野山での生活は、本当に大変です。
しかし、今は環境も整えられ、すばらしい校風の学校になっています。
何より、卒業生たちは高野山高校を本当に誇りに思い、母校を盛り上げたいと願っています。
どうか高野山高校へ、一人でも多くのお子さんを集めてやってください。
どうもありがとうございました。
〔拍手〕
質疑応答・補足
何もできなかった三年間が、その後の個性を伸ばした
司会:ありがとうございました。
せっかくの機会ですので、質疑応答の時間を設けさせていただきます。ご質問等がございます先生がおられましたら、挙手をお願いいたします。
天野氏:なかなか質問しにくいかもしれませんので、少し補足します。
高校時代、高野山高校では、
「あれもしてはいけない、これもしてはいけない」
という生活でした。
子どもの頃に持っていた趣味は、ほとんどできませんでした。
三年間、映画も見られない。プロレスも見られない。バンドもできない。
しかし、この「何もできない三年間」があったからこそ、卒業すると、みんなそれぞれの趣味を、とても大きく伸ばしていきました。
今日、『高蔵寺だより』を持って来ています。
その表紙に載っている写真は、私が今、株式会社「坊さん玩具工房」という会社で、息子と一緒に作っている作品です。
昨年7月から、息子と一緒に人形を作ったり、絵を描いたり、それを販売したりする仕事を始めました。
お坊さんというものは、基本を学んだら、そのあとは、いろいろなことをした方がいいのではないかと思っています。
今の時代は、人を無理に仏教へ連れていくというより、いろいろな趣味や関心から話ができる方がよい。
個性のある子ども。
「これしかできない」と言われるような子でも、
「これでは誰にも負けない」
というものを持っている子は、高野山高校に向いていると思います。
ぜひ勧めていただきたいと思います。
27歳で住職となり、客殿を再建した話
もう一つ、この中に新聞記事があります。
毎日新聞の地方版に、二か月ほど前に載せていただいた記事です。
私がこれまでやってきたことが、ここに凝縮されています。
高校・大学と八年間、高野山でお世話になりました。
卒業後は、どこか海外へでも行こうかと思っていたのですが、祖父が倒れ、急きょ倉敷へ呼び戻されました。
25歳頃に戻り、27歳で住職になりました。平成7年、1995年です。
布教に燃えていたのですが、その年にはオウム真理教事件があり、宗教というだけで、何もさせてもらえないような空気になりました。
その前には阪神・淡路大震災があり、寺の建物も傾いていました。
危険度を調べてもらうと、
「五年から十年のうちに建て替えなさい」
と言われました。
建て替えろと言われても、大変なことです。
当初は五千万円を集め、修理する予定でした。
しかし、傾いた状態の建物を直して残しても、後の住職たちに申し訳ないと思いました。
「改修ではなく、新築に戻したい」
と決断し、総代の皆さんから、ずいぶん怒られました。
そして、法隆寺の宮大工の伝統を受け継ぐ西岡常一棟梁――西岡棟梁はすでに亡くなられていましたので、その弟子である小川三夫棟梁の所へ行きました。
集まっていた五千万円の通帳を持って、
「すみません。建ててください」
と頼みました。
「ばかか」
と言われました。
しかし、十年間かけて一億六千万円を皆さんに寄進していただき、客殿「施薬殿」を建てました。
今では、小学校が遠足へ行く前に建物を見学したり、人が集まったりする寺になりました。〔「中国地方で初めて」の後に続く語句は要音声確認〕
若いときには、無茶をするものです。
そんなとき、私はいつも橋本先生に相談しました。
橋本先生は、
「できるやろ」
としか言わないのです。
簡単に、
「できるやろ」
と言う。
しかし、先生ご自身が、実際にいろいろなことをやってこられた方なのです。
そうやって、師という存在を通して、今の私があります。
皆さんも、何かあれば、橋本校長先生を頼っていただけたらと思います。
本当にありがとうございました。